2009年6月4日木曜日

「オカアサン!」 by acupoftea


先週から諸事情により午後から出勤している。今週は仕事が終わるのが午後7時。




車が1台しかない我が家では、その日の夫婦2名の行動予定を考慮の上、どちらが車を主に使うかを決める。

今週は夫が私をオフィスに送迎してくれることになっている。

昨日、午後7時に仕事を終えて、オフィスを出た。がらんとした駐車場に我が家の車があるのだが、中に人影が見えない。どうしたんだろう。

辺りを見回すと、少し離れたところで夫と娘が手をつないで歩いているのが見えた。娘は私を見るなり、

「あ、オカアサン!」

と叫んで、笑いながら、しかし一生懸命な面持ちで駆け寄ってきた。




ただそれだけのことである。でも私は妙に切ない気分になった。

私を2歳前から保育園に預けて仕事をしていた母の気持ちはこんな感じだったのだろうか、とふと思った。

私は気まぐれで、自分勝手で、気の短い、いじわるな母親である。

帰り道、助手席ではなくカーシートの隣の席に座り、ずっと娘の手をつないでいた。




…で、夜が来るとなかなか寝付かない娘にいつものように苛つく、懲りない私なのである。


閑さや by 碧

松尾芭蕉が奥の細道の旅に出たのは1689年のことだ。山形県の立石寺に着いたのは旧暦5月27日、新暦なら7月13日の暑い盛り。

立石寺で蝉の声を聞き、こう詠んだ。
山寺や石にしみつく蝉の声

その後で推敲し、
さびしさの岩にしみ込む蝉の声

そして最終的にはこの形に纏めた。
閑さや岩にしみ入る蝉の声

だから、この句が完成した時はその場に居たのではなくて、後から振り返って、過去の風景の写生、または写生した風景を純化したものだ。

再案の「さびしさ」から最終案の「閑さ」に変わってゆく過程で、芭蕉の心に大きな飛躍があったのではないか。

「さびしさ」というのは、奥の細道のテーマではないかと思うが、また、生きることの無情、それは人間だけではなくて、草木、また鉱物にいたるまでの、いのちそのものの儚さから派生するものだ。芭蕉はこの旅に出たときから、漠然と、客死することを予感していたのかもしれない。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

唸るばかりの蝉の声を聞き、その最中に静寂を感じている。岩も呼吸をし、蝉の声も一枚の有機的な生き物のように、お互いが感応しているのだ。芭蕉はそれを感じ、その中にいることで、直観的にインナーピースの心持ちに近づいてゆく。

Echhart Tolle は Gateways to Now の中に、「静寂」から、インナーピースに入ってゆくという道を示している。すべての音は静寂から始まり静寂に終わり、またすべての音の合間には静寂があり、そして、すべての音の底流(undercurrent)には静寂がある。

その静寂を聞き取るには注意深さが要求されるが、その行為そのものが、知覚を開いてゆく。目覚めた知覚で感応する世界は、過去でもなく未来でもなく、今そのもので、それはこの上もなく美しい。

芭蕉は、立石寺の蝉の声と岩の風景を、後日心の中に蘇らせながら、その唸るような蝉の声の底流にある「閑さ」を感得したのだ。「閑さ」のドアから入って行った芭蕉のインナーピースは、それはまた「今」から「普遍」への飛躍でもある。